世 界を覆う病 〜衆愚政治〜
2010年2月、ギリシャ危機(債務不履行の疑い、つまり借金の返済出来なくなった)を端にEU、延いてはユーロ通貨の信用(通貨価格)が下落して行き ました。
其れから約一年半後の11年11月、パパンドレウ首相(当時)は、
「EUからの支援を受けるかどうか、国民投票で決める」
と発表して株価が大幅に下落しました。
欧州株、大幅続落=ギリシャ国民投票を嫌気
支援拒否ならユーロ圏離脱も=「破綻の恐れ」と批判−ギリシャ国民投票
首相が嫌ったのは、「ギリシャ政府が支援を受ける替わりに、財政削減――要は政府の支出を減らせ」と釘を刺されたからです。
(借金の免除と繰り越しを認めるのだから、財政再生への努力を見せろと)
結果として国民投票は行われず、同士は暫くして辞任、今も尚ギリシャはEUに留まり続けています。
問題が残っているとすれば“先の総選挙でどの党も過半数、またはそうなる連立を組めず、再選挙する事になった”ぐらいでしょうか。
そんなギリシャ政党、また国民を見て私は思いました――衆愚政治、と。
しゅうぐ‐せいじ【衆愚政治】 ‥ヂ
(ochlocracy)多数の愚民による政治の意で、民主政治の蔑称。もと、古代ギリシアのアテナイでの民主政治の堕落形態を指した。
広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店
そもそも衆愚政治という言葉の発祥はギリシャからです。Wikipediaにはこう書かれています。
ペロポネソス戦争の後期、メロス島事件を発端としてアテナイ海軍がシラクサ攻略を目指し紀元前415年にシケリア島遠征に出発した。
しかし大失敗に終わり、紀元前413年に敗報が届くとアテナイ市民は混乱し、逃げ帰った正真正銘の兵士らの報告を聞いても長い間信じようとしなかった。
やがて真実であると判明すると市民たちは自分たちの投票を棚上げにして政治家を非難し、神託や予言に憤りを投げつけた。
これを機に寡頭政治を樹立する動きがおき10人からなる先議委員制度が設けられ、これはのちの「400人会」となって結実する反動勢力の先駆となった。
(引用終了)
どこかで聞いたような話が二千年以上前に存在したようですね。まぁ人間の精神性は何ら変化していないのだ、と仰る方も居ます。
(尤も不朽の名作と呼ばれる古典が、今も尚世界で読み継がれているため、悪い面ばかりと非難するのは筋違いでしょう)
世界の多くでは間接制民主主義を採用しています。国民が代議士候補へと投票し、為政は国民の信任を得た政治家が担います。
では国民投票の意義について、ですが、確かに国民の意思を直接反映出来る(可能性がある)には価値があると思います。
しかし――国民の選択が常に正しい、とするのは大きな 間違いでしょう。
以前書きましたが、国家社会主義ドイツ労働者党、俗にナチス党と呼ばれた政党がありました。
(ナチ党、またはナチスという言葉自体が“党”という意味を含んでいるらしいのですが、分かりやすくするためにナチス党と表記します)
彼らは排他主義・対外戦争への道を選択し、最期は連合国によって解党させられました。
其れについて異議を唱えるつもりは御座いませんが、ナ チス党は“ドイツ国民の選択によって選ばれた、正当な政治結社である”のもまた事実なのです。
(正当な政党、と書こうとして止めました)
事の背景はベルサイユ条約、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツで多額の賠償金を課せられ、または植民地の殆どを失いました。
しかも其れだけでなく、賠償金の支払いが遅延すると ルール工業地帯をフランス軍が進駐・占領しました(ルール問題)。金が支払えないなら現物を、現物を出さないのであれば工場を、という思想 ですね。
周辺国が強硬にドイツを追い詰めていった結果、対外強硬を唱える政党が国民の支持を集めていきました。そして正当な選挙によって其の政党、つまりナチス 党が第一党となります。
ある意味当時の日本もまた同じで、ABCD(America,British,Dutchに加えてChinaのABCD)包囲網により資源の多くを絶た れ、アジア進出へ舵を切らざるを得ませんでした。
「帝国主義の植民地政策」と非難される方も居るでしょう。私もまた“ある面では”其の通りかと存じます。
ただし当時のアジアではタイを除くほぼ全ての国が西欧列 強の植民地化にあり、また日本の中国進出にしても他の国が租界という形で植民や軍隊を駐留されていたにも関わらず、何故か国民党・共産党軍は日本軍“だ け”へ攻撃を仕掛けていた、と言うのも不思議に思います。
アメリカ・イギリス・オランダが人・物・金、全ての面で支援していただけ、なんですが。其のツケとして半世紀に渡る冷戦、今日の中国の台頭という脅威を 味わっている最中です。
ともあれナチス党が躍進したのは、決して非合法な手段で 国民を脅したわけではありません。後期になってくるに連れ、違う思想の持ち主を罰してきましたが、成立に至った、つまり彼らが権力を得るに 至ったのは、ドイツ国民の自由意志に寄る所が大きいのです。
さて、「国民は選択を誤るのだから、考えて投票しないといけない」で、話は終わる――筈、ですが少し続きます。
当時のドイツ国民はナチス党を選びました。其れ自体を非難するつもりはありません。一応は民意なのですから。
軍を解体、国家予算規模の賠償金を課せられ、返済するために政府は意図的なインフレを余儀なくされたのですから、国民は既存の政党や他国へ対して不信感 を抱くのは当然の流れだと言えます。
ただしドイツ政府としては至極真っ当な対応であった、 とも付け加えておきましょう。
賠償金を支払わなければ容易に自国へ攻め入れられる、というのもまた当時としては当たり前に起こった事であり、防ぐためにはある程度の負担は已むを得な かったのです。
課せられた賠償金や不公平な条約を凌ぐために、”現実を語っていた”当時の内閣が支持を失い、弁舌巧みに現れた”理想を騙る”人間へ取って代わった、 と。
ただしルール問題ではナチス党はフランスへレジスタンス活動を仕掛けており、党員であるアルベルト・シュラゲター氏がフランス軍に拘束、処刑されまし た。また其の後幾度か党自体を非合法とされる等、与党へ就くまで平坦な道ばかりではありませんでした。
只、少なくともナチス党はレジスタンスという形で(当然非合法ですし、現代で同じ事をすればテロリストと呼ばれるでしょうが)対外敵と抗戦しており、結 果ドイツ国民の支持を得たのも確かです。
ちなみに嘗ての日本にも”革マル派”や”日本赤軍”等、「武力や非合法な手段を以て革命を起こそう」という方が居ましたが、彼らは罪のない民間人を攻撃 し続け、国民の賛同を得る事無く消えていきました(少なくとも歴史の表舞台からは)。
では日本はどうでしょうか?
太平洋戦争が起きたのは軍部の暴走によるため、と私は学校で教えられましたが、当時の日本もまた間接制民主主義国家です。
よって政府は軍部の暴走を押さえられなかった、または追随していた事を意味していますが、何故そうなってしまったのか、と考えた事はあるでしょうか?
答えは簡単です。日本国民もまた戦争を望んでいたか らです。
誤解なさらないで下さい。私は別に日本人が野蛮とか残虐だとか、どこかの国がチベットや東トルキスタンへ行っている非人道行為から、国際社会と人民の目 を逸らせるためのプロパガンダを真に受けているわけでは御座いません。
1905年、日露戦争後、日比谷焼き討ち事件というものがありました
日比谷焼き討ち事件
1905年のポーツマス条約によってロシア
は北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。
しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、
日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。
そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大
臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も敷かれた。
(引用終了)
政府のロシアとの講和条約に反対する人間が起こした暴動です(死者17名、負傷者2000名以上)。後に大正デモクラシーだとなんだの、日本の民主主義 の起点とも言われています。
問題なのは“何故、彼らがそんな事をしたのか?”という点です。
とある新聞では8月15日が近づくとこんな標語が目立つようになります。
「我々報道機関は、先の大戦では力及ばず政府の弾圧へ対し、膝を屈してしまった。だからこそ誓う――彼の悲劇を二度と起こさないように」
実にご立派な誓いだと思います。思いますが、果たして其れは本当なのでしょうか?
「講和会議は主客転倒」
「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」
「小村許し難し」
以上は当 時の朝日新聞には書かれていた一文です。
(紙面の画像を探しています。著作権は切れているため、見つかり次第掲載したいと存じます)
以上の新聞から分かる事は二つ。
1. マスコミへの言論統制(此の件に関して)は行われていなかった
2. そしてマスコミは戦争を煽っていた
つまり現在、“良識の府、社会の公器とやら名乗っている マスコミが率先して、日本の戦争を煽っていた”と。
此を機に日本国民の意見が国政へと反映されていくのですが、其の内容は“脱亜入欧”、欧米のような軍事強国になる、という方向性でした。
(当時の政治状況では必然であったとも思います。過去・現在に於いて国家規模に比例した軍を持たない国はありません)
其れだけであるならば、まぁ理解も共感出来ます。
しかし日本の敗戦後、彼らは態度を一転させ、まるで自身が被害者であるかのような振る舞いを見せ始めます。
日本の軍拡主義の一端を担った、というかむしろ率先していたのは当時の新聞だったというのに、です。
程度の問題もあります。国際連合を脱退し、大局的に利が無い行動についても「我らが代表、堂々退席す」と誉めちぎって居ました。
つまり戦前の日本はマスコミが“やりすぎた”ため、勝ち 目の薄い戦争へと向かわざるを得なくなったのです。
(結果として欧米列強の植民地だったアジア諸国の独立運 動に手を貸し、少なからず――後日記事にします――感謝を受けたもまた事実ですが、勿論日本は日本の国益を主体に置いていたのも間違いでは ありません)
何が問題かと言えば、彼らマスコミの体質は変わっていません。生活保護の不正受給での一件で身内の擁護へ走ったのが好例でしょう。
そしてそんなマスコミに看過される人間が、人々から指示される立場にあるというのもまた問題です。其の最たるものが“衆愚政治”です。
其れが日本ならずとも世界を蝕んでいる病の名です。