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こんな晩 〜たまには文化人類学〜

 年の瀬も迫った今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか?
 ファイルの整理をしていると、ふと思い出しました――あぁそう言えば文化人類学の話を殆どしてないな、と、

 まぁ折角なので一つご披露しましょう。題目は『こんな晩』。


 時代は昔、場所はとある農村。もうすぐ年の瀬であり、目出度い新年を祝おうとAさん夫婦は正月の準備を進めていました。
 ですが其の年は凶作になってしまい、夫婦は満足に用意も出来ません。さて、どうしましょうか?

 そんな所へ旅の僧がやってきます――「今晩一晩、寝床を貸しては頂けないだろうか?」

 夫婦は喜んで承諾し――其の夜、二人は僧を殺め、持って居た金品をせしめます。其の夜は立待月の奇麗な晩でした。
 彼らは其れを遣って豪華な正月を迎える事が出来ました。

 数年後、夫婦の間には子供が生まれ、また僧の持って居た金品を元手に一家は成金になっていました。ですが子供は何も喋らず、医者に診て貰っても首を捻るばかりです。

 とある年の瀬、気がつくと子供の姿が見えません。夫婦が探すと子供は十七夜の月を指さし、こう言いました。

『俺を殺したあの日も、こんな晩だったな』


 ……と、言うお話です。太歳の客とか六部殺しとか言われています。
 実は此の話にはハッピーエンドで終わるタイプもあります。僧を泊めた夫婦が善良である場合、一晩経つと僧が金塊に姿を変えていたりします。他にも傘地蔵なんかが類型として分類されていますか。
 実際にあったかどうかは別として、似たような話は全国各地で語られています。

 『こんな晩』を人類学として解説致しますと“まれびと”として括られます。
 一番近い例だと『お正月様』ですね。よく私達は正月が来ると鏡餅をつき、注連飾りをし、門松を立てる――其れら全ては『お正月様という神様(もしくは祖霊)をお迎えする』と言う行為です。
(偉い神様を接待し一年を無事に過ごそう、ぐらいの話です)

 “まれびと”(折口信夫氏の作った概念だと言う方も居ますが、私は“外から来る神霊”としては適切だと思います。逆に祖霊で全て片付けてしまう方が不自然かと)は福をもたらすものから病疫神まで実に様々な種類があります。
 またどちらの側面も持って居る――丁寧に扱えば豊作になるが、粗末にすれば凶作になる、と言うのも良くある話です。
(多神教ではまれびとに関わらず、複数の側面を持つ神も多いですが)


 さて、まれびとの説明をざっとしてしまいましたが、『こんな晩』にはもう一つの意味があります。其れは――“村落共同体での平等幻想”です。
 例えば――Aさんの家の景気が良かったとしましょう。原因は何でも構いません。養蚕に成功したり、外の商人との商売で小金を手に入れたり、兎に角、村に住む他の家よりも急に羽振りが良くなりました。
 すると村人達はこう考えるんです――俺達もAさんも仕事(基本農業従事者、働く量も時間も殆ど同じなのに)は変わらない。ならばきっと“何か不正をしたに違いない。そうだ、旅の僧を殺し、金品を奪ったんだろう”と。

 ……いや酷い話なんですが。結果を見て原因を作ってしまう、と言いましょうか。ある種此は正しい解決方法でもあります。現代では差別以外の何物でもありませんが。


 さて、ではそろそろお開きに――あぁそうそう、もし此を読んでいるのが12月30日でしたら、どうか夜空を見上げてください。

 其処には十七夜の月が浮かんでいます――そう、『こんな晩』のように。

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